世界は広い。
僕が知っている世界なんてちっぽけなものだと思う。
しかしのぞきこんでみると意外と深いのかもしれない。
いつだったか「世界は見ている人の数だけある」と言われた。
だとすると、僕がこれまで見てきた世界は誰も見たことがないものだ。
はじめに、世界は広いと言ったけれど
それは物理的な世界ではなく、ひとりひとりが経験してきた世界なのだろう。
そうした個人が経験してきたことで言うと、僕は、中東(シリア)でのキャリアがある。
生活習慣はもちろん信仰や言葉が異なるシリアでの生活は
意思疎通を図るためには、身振り手振りでのボディランゲージも使いながら
相手が理解しやすいアラビア語を使うことが、滞りなく物事を進めるための基本だった。
僕にとっては馴染みのある日本語でも英語でもない、3番目の新たな言語を使用するのは
苦労もあったけれども、面白く、そんな非日常での暮らしを経験してきたことは現在に活かされている。
それはセッションの時やトレーニング指導をするときも同じで、相手に伝わりやすいように
相手のフィールド(領域)でイメージを共有できるように、(自分の領域である)専門的なことばはできるだけ使わないようにすることであり
視覚・聴覚・触覚などの感覚を使ってシンクロして、相手を感じるということでもある。
僕が経験してきた世界と、そこで感じたこと、そしてそれを現在進行形で表現すること。
それが僕の場合、たまたまボディワークという形だった。
ボディワークとは、からだ感覚にアプローチすることで「何か」を感じてもらうことだ。
ひとことにボディワークと言っても、その表現方法や伝える内容はさまざまだ。
人によってはそれを正義とするかもしれないし、ビジネスにするかもしれない、、
どれもその人が感じたことだから正解だし、そのことに魅力を感じる人に支えられていく。
それらに共通しているのは「そのことが人生をより豊かにする」ための表現だということ。
一般的にはフィットネスやエクササイズというと「健康のため」ということが連想される。
しかし、感じることをうやむやにしてしまうと、健康のためのものが不健康のトリガーになってしまうこともある。
僕自身、健康づくりを推進している大手フィットネスクラブで勤務していたとき、
椎間板ヘルニアを患い、一時的に寝たきりになってしまいこの仕事を諦めたことがあった。
どんなにトレーニングをしても、からだの使い方を間違えると望まぬ結果になる。
そんな経験から復帰したこともまた、僕のボディワークには内在されている。
ときとして、それはエクササイズという形で大人数を対象に表現されるし、徒手療法という形にもなるが
伝えたいことは、
自分自身のからだに目を向けることができれば、より良い人生にすることができる
ということだ。
僕たちはひとりでこの世界を生きているのではない。
僕の見てきた世界、見ている世界、そこで経験したことが、僕の周りに集まってくれる方にとって有意義で、役に立つのであれば
からだを使って表現をするボディワーカーとしては、とても有難く思うし、それがまた仕事への情熱になる。
世界は広く、まだまだ知らないことがたくさんある。
30年そこそこ生きていても、身近な世界でも知らないことだらけだ。
生まれたばかりの赤ん坊のように、新しい刺激に敏感に、恐れることなく反応し
知らないことを知るため、やりたいことをやるためには
知らないことだらけの自分のからだを知ることから始まるということ
知らなかったことを知ることができると、これまでの常識が間違っていたこと
その常識に縛られていたこと、常識から解放されることで得られる自由があること
からだに信頼が持てることで、自分の人生は今よりアクティブになることができる。
そんなことをボディワークを通して表現し、伝えたい。