常識なんか投げ棄てろ
ひとは生まれてから、少しずつ時間をかけて「からだの自由」を獲得する
寝返りができるようになり、ずり這いができるようになり、掴まり立ちを始め…
時間の経過とともに手足の自由度も高まり、ある人はスポーツに没頭し、ある人は芸術にのめり込む
そして、気づくと加齢による運動能力の低下と、それに伴う身体機能の低下に悩まされる。
が、それは果たして正しいのだろうか?
もちろん加齢、つまり重力による押さえつけを生きてきた時間分だけ受けていることが、それに影響していることは大きいだろう。
だが、一方でその力に正しく抗うことができれば、私たちが思い込んでいる加齢による機能と能力の低下から逃れることはできると考えることができるのではないだろうか。
からだの不調は、からだのどこかの部位が弱いから、その部分を鍛えて強くする。
現代日本において、某ザップの働きにより、美容と健康のためには常識とされている「筋トレ」
果たしてそれは万能な考え方なのだろうか??
からだを細分化しすぎたあまり、組織が孤立化させてしまうことになり
からだの全体性を損なってしまっていることに気がつかなくなっているのではないだろうか?
からだは全体性の中で、恒常性を保ちながら、自ずと機能していくことを目指すのは間違いなのか…
私たちは生存に対して、もっと感覚的になり、そこからのフィードバックを元にリアクションする。
幼い頃から積み重ねてきたものが、ずっとからだの中に機能している、そんなからだを作ることはできないのだろうか。
量子力学的観点において、誰かが考えていることは、きっと実現可能なのだとしたら…
からだに対する捉え方、考え方が変わると、結果は少しずつ変わってくる。
変革はマイノリティから始まり、やがてそれが新たな常識となり、時代をつくってきた。
そして進化を遂げてきた。
こんなにも情報化が進み、細分化が進み、全体性が損なわれてきた時代だからこそ、それらを統合するための感覚と知恵と経験を積み重ねていくことが、現代に生きる私たちには必要なのではないだろうか。