大切なことは頭で考えてもわからない
私たちは「からだ感覚」が鈍い。
どう鈍いか??
それはヘルニアになるまで腰痛を放っておくあたりだったり…
怪我で靭帯を損傷してもギプスをしていれば元どおりになると思っているところだったり…
とにかく自分のからだの不調に耳を傾けることがない。
からだより頭の方がずっと賢いだなんて思っていたりするあたりもそうかもしれない。
からだは賢い
熱いお湯に指が触れたとき、考えるより先にからだが反応する。
長時間パソコンに向かっていると、大きく息を吸い込んで伸びをしようとする。
打ち身や打撲などでは患部を撫でたり、さすったり、手を当てることで痛みを和らげようとする。
足元のコンディションが悪くても、頭の位置を安定させて立っていることができる。
これらはすべて頭で考えてする行動ではなく、からだが勝手に反応する行動だ。
ちなみに目に何かが飛び込んできそうになった時も同様に、考える以前にからだが反射している。
からだで感じること、感じたことに対して動く。
残念なことに、たったそれだけのシンプルなことにブレーキを掛けてしまうのが、マインド(個々の持つ特定の思考パターン)だったりする。
からだは「快適」でありたい
我慢をしたとき
怒られているとき、怒っているとき
急いでいるとき
機嫌が悪いとき
そんな時は往往にして、お腹がぎゅっと縮んでいる。
それはまるで腹筋運動をやっているかのように…
それはまるで触手にふれられたイソギンチャクのように…
お腹が伸びたり縮んだりするのは自然な反応だが、伸びきっていたり、縮みきったりしているとそれぞれ反対側の力がかかった時には初動が遅れる。
それはからだの生存本能的には望ましくない状態だといえる。
興奮・緊張状態でもなく、弛緩・緩慢状態でもない、バランスが取れたそれぞれの中間(ニュートラル・中庸)的な状態でいることができれば、次のアクション(反応)を起こすのにロスが生じることが少なくなる。
自分のからだは内面を映し出したものでもあるし、自分の周りもまた映し出されたものでもある。
力むことなく、脱力しすぎることもない状態であり続けるための訓練
トレーニングというと、何だか仰々しい。
遊びというとちょっと敷居が下がりすぎる気もする。
動作は繰り返し繰り返し行うことで、からだに染み込んでいく。
日常の中で遊びながらからだにいいことを毎日続けることができたら
ある日、それが新たな癖としてからだに定着していることに気がつくかもしれない。
ゆらゆらと揺れるボールを押さえつけるのには力がいる。
力を加えれば加えるほど、ボールからの反発も強くなる。
だから最小限の力で押して、最小限の反発を感じる。
そんなことをただ淡々と繰り返すことで、自分のからだの使い方が変わっていくのがわかる。
外出自粛でおうち時間が増えた今だから、家族と友達と恋人と、家でバランスボールで遊びながらコロナが収束した時のことを話したりしてみてはどうだろうか?
からだが固まってると、心まで硬くなる。