自分を表現する可能性を拡げる

コバヤシヒロタ

なんでからだのケアをするか? それは「自分を表現する幅(可能性)を拡げることができるから」

若いときはからだに無理も効く。

 

が、しかしどうだろう?ちょっと前(10年前)と比べて、からだはどうだろう??

 

一般的には、加齢とともに筋力は衰えて、エネルギーも低下してくるとされているが…

 

中には、衰えるどころか、加齢と共に若返っている印象を持っている人もいる。

 

私たちが思っていることは「思い込んでいること」でもある。

 

その思い込んでいることが「自分の中の『常識』」として、思考にもからだにもロックをかける。

 

そして時間の経過と共に衰えていくことが、老化だという事実を作ってしまう。

 

だがどうだろう。

 

先にあげた加齢と共に、若返っているような方は何が違うのだろう…

 

もし時間の経過とともに、感覚が鈍化して、からだに対する意識が離れていっていることが、老化の原因だとしたら…

 

慣れた動作は確認することを必要としない

子どもが食事をしている様子を見たことがあるだろうか?

 

箸の持ち方ひとつとっても、確認をしながら、ものを摘んで、そして口元まで運ぶ。

 

形状が変われば、より微細なコントロールを必要とするのでなかなか難しそうだったりする。

 

まさに、日々の中でトレーニング(からだをコントロールする方法)が行われているわけだ。

 

一方で、箸を使うことなど当たり前になった私たち大人は、食べたいものへの意識はあれども、箸を動かすのに必要な微細な動きに気を払うことなどない。

 

だが、過去に骨折をして、腱鞘炎になって、突き指をして…様々な理由で「変な動き」を強いられたこともあるはずだ。

 

それが過去に身につけた、慣れ親しい動きを壊すものだったかもしれないのに

 

そして、からだへの意識がなかったために、時間の経過とともに、変な動きへと上書き保存されてしまう。

 

動きに慣れる(習得する)ということはとても重要だが、習得したものに磨きをかけることを(反復練習)することはそれ以上に重要になってくる。

 

頭を動かし、からだを動かし、自分を表現している

例え、そのことに意識が行ってなくても、からだは常に「表現」している。

 

悲しいとき、嬉しいとき、怒っているとき、言葉に出さずともそれを察することができる。

 

ひとつのことに没頭していた時間が長い人は、姿勢がそれを表現していたりする。

 

特に「子ども」はその反応を抑えることができないから、感情がそのままからだに現れる。

 

もし、表情も姿勢もにこにこしていたら、きっとその人は機嫌が良く、健康な印象を受けるし

 

その逆もまた同様である。

 

五十肩で腕をあげることが辛い人は、肩を中心に動きが狭まり、顔もニコッと広がることができずクシュっとしている。

 

つまり、本来からだが動ける範囲から少しずつ縮んでいくことは、表現の幅を狭めていると言うこともできるわけだ。

 

競技でも、あと1歩、あと1センチ、あと僅かのところで悔しがることだってあるし、その逆も同様だ。

 

 

時間をかけて、意識を向けて、からだと向き合った分だけ、自分にフィットしたからだになってくる。

 

それは老化ではなく、順応や適応というべきもので、進化(深化)と呼ばれるものになるかもしれない。

 

(からだを使って)あなたはどんな表現をしますか??

 

 

 

 

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